ワタシリズムに気づく ー 心と文脈 ー

ジャーナル

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私のまわりも、子育てに家事に仕事にいそがしい人ばかりです。

理屈では「立ち止まること」「休憩すること」の大切さをわかってはいても、実際は歩みを止める、いや遅めることすら簡単ではありません。

みなさんの中にも、似たような環境の人がいらっしゃるかと思います。

変化

2020年ある夏の日、わたしは自分の言葉がおかしいことに気づきました。
思うように言葉が組み立てられず、読むことも書くことも困難になりました。

その後、病院でストレスが原因だと告知されます。

ドクターには、すぐにでもすべてを一時停止するよう言われました。
仕事はもちろん、家事も「お米を研ぐだけにしてください」とそんなレベルです。

それまで、私も例にもれず、子育てに仕事にそれなりに忙しい暮らしをしていました。

気持ちのいい疲れを感じているつもりでした。

しかし、いま思えばそれは充実とは少しちがっていたのかもしれません。
ただガムシャラに忙しい日々だったようです。

自分を省みる隙間もなく、自分をメンテナンスする発想すらなかったのです。

 

休憩時間

しばらく仕事をストップして、ぼんやり過ごしていました。

無意識に常に頭のなかで考えごとをしていた私が、意識的に自分の内側にフォーカスし、季節を迎え、風と過ごし、時を送り、漂流するように身をゆだねながら日常を深呼吸し、

「本当に大切なことってなんだ?」

そんなことを感じていました。

一時停止の、一見、無意味のような時間。

けれどその時間の中には、この変動の激しい今の時代に、自分を見失わないために必要な《なにか》が、見つけられるような感触がありました。

 

見えてきたもの


今回私は、
言葉で伝えたいことが伝わらない、頑張りたくても頑張れない、それは甘えとはちがう、メンタルの踏ん張りのきかないことの苦しさを突きつけられました。

結果、私が得たものは(まだ治りきっていないので正確には「うっすら得ているものは」です)、

「たまたま頑張れてない今が悪いわけじゃない」

ということです。

 

外からの刺激がこわくて細めてしまった目だからこそ、見えるものがあり、
耳を塞いだ手が離せなかったからこそ、聞こえた自分の声がありました。

完治まではまだ時間が必要ですが、私がこの状況を言葉として残す「跡」は、完治してからでは意味がないような気がしています。

経験を踏みながら、道の途中にみえる景色を記録していこうと思います。

 

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