友人が天国へ旅立って、もうすぐ1か月がたとうとしています。
思えば数年前のあの日、私の父に病気が発覚したという母の電話の、その数分後、今度は別の電話で友人が病気になったと知らされたのでした。
友人の長かった闘病生活、その間、いろいろな話をしました。
その時々の友人の表情がスライドみたいに、現れては消え、現れては消え・・・私の頭のなかは今もそんな感じです。
私たちは、自分の身の回りで起こったことを学びとして、もしくは経験として、きちんと糧にして生きていかなければいけません。
私は友人の生きたかった時間を、これから生きていくことになります。
「永遠でない明日」を想像すれば人は強くなれる、やさしくなれる
誰でも平等に明日はやってきます。
ですが、健康に生きているとそれが当たり前すぎて、永遠に明日があるつもりになってしまい、自然の流れに心をゆだねることができずに、荒立ててしまいがちです。
自分以外のなにかに、自分の心をゆだねるのが怖いのです。
けれど、自分の未来を目先のゴタゴタにコントロールされ、潰されてはいけない。
そのためには自分を強く持って、立ち止まる勇気、進む勇気、目をそらす勇気、対峙する勇気が必要です。
なんだか難しそうに感じるかも知れないけれど、きっと人は動かせない現実を前にした時、そんな強さを発揮できる生き物なのだと思います。
友人をみて、私はそう感じました。
「やらなかった後悔」は過去を振り返ることで克服できる
私は、これまであまり出さなかった(出さないようにしていた)「自分の過去や経験を強みにして生きていく」という考え方をすすんで書いていきたいな、と思っています。(・・・って言うとちょっと大げさに感じる?でも、そういうことです)
なんとなく「過去に縛られて生きていく」みたいなニュアンスに伝わってしまいそうで、今まであまり積極的に文面化はしていませんでしたが、これは私がずっと思ってきたことです。
前を向くことは大切。
前だけをみて行かなければならないこともあります。
けれど、これまでの自分を感じながら(失敗も成功も)、振り返り立ち戻り生きていくことも忘れてはいけない、そんな雰囲気も織りまぜて書いていきます。
(ちなみに私は、手帳やノートを、この振り返りのために使っているといっても過言ではないです。手帳やノートは過去の自分とコンタクトをとる場、と言ってもいいかな。)
つまり、自分のルーツを感じながら暮らすということです。
これまでの体験と自分に流れる血を感じながら、目の前を模索し、選択し、進む方向を決めるのです。
闇雲に前へ前へ、というのではなく。
(私のこういうクセはおじいちゃんに似てるな、とか、私のこの部分は娘が私の血を継いでるな、かわいそうに・・・笑、など)
失敗も、後悔も、変えられない諦めも踏まえているので、「先延ばしにした結果、“結局やらなかった”」と事態を回避することができます。
先延ばしこそ有限。先はいつ途切れるかわからないから
命と同じように、先延ばしは永遠には伸ばせないということを、もっと身近にもっとリアルに感じることが、先延ばし癖の特効薬かもしれません。
今回、私は友人の他界を経験し、こうして今を生きる私たちが、何か想いのあることを先延ばしすることは、命の先が見えた人に対してすごく失礼な生き方をしているような気持ちになりました。
「もっと生きたい」
友人の、口には出さないこの言葉が、五感のスキマをぬって私に入り込んできます。
思うだけの「いつか」はない。タイミングを待っている「いつか」はきっと叶う
私は自分の体へこんな言葉を巡らせます。
胸の内にとめている「いつかやる」に期待をしていないだろうか。
その「いつか」はいつだろう?
今日?
明日?
来年?
10年後?
何もアクションしなかったゼロの状況を、「いつか」を失ったときの私はどう思うだろう。
出来るときがあったのに、それを逃していた自分をどう責めるだろう。
人間は目標や目的ができた瞬間から、目の前の世界の彩りが変わります。
期限があるものや、タイミングを待って温めている行動は焦らずそのときを待ち、そうでない漠然とした頭の軸にある「いつかやる」ならば、たとえ半歩でも行動しておくと後のモチベーションの加速がまったく違います。
もしも成し遂げられなかったとしても、その時の自分の人生の充実度も違うはずです。
友人と過ごした時間を思い返しながら、私は何度も自分に問います。
命の先が見えた未来の自分が、“もっと生きたかった”と振り返る過去の時間、つまり、いま私が消化している時間を、私はちゃんと生きているだろうか?
いま私の頭の中に浮かんでいること、思っていることを形にしたいのなら、先延ばしなんてしてる時間はないのです。
あなたはどうですか?