
映画『プール』は、タイのチェンマイが舞台。
小林聡美さん演じる京子は、数年前に突然自分の娘を母親にあずけ、タイのゲストハウスで働いているという背景のもとに、ストーリーが進みます。
京子の娘が卒業旅行と称して母のいるタイのゲストハウスへやってきます。
そして、登場人物たちの日常に少しだけ風が吹き込んでいくという「日々のlog」のような物語です。
それぞれの登場人物にそれぞれの事情があるけれど、それらは何ら特別なことではなく、誰にでも訪れる命の問題や誰もが経験する感覚のズレだったりします。
あくまでも「日常」がベースです。
大きな事件もイベントもなく、ただただ海でもない、湖でもない、プールの水面のような、おだやかな時間の(感情の)流れを追っているよう。
さて、ここからは私の解釈です。
海は無限に広く深く、湖も人の手の行き届かない境地はまだまだあります。
一方、プールは人工物。
手の行き届く、限られた、けれど安心で守られた制限されている枠です。
私たちの命は限られている。
その限られた時間で、地球上のすべての人と会うことはできないし、すべての土地を踏むこともできない。
悲しいかな、与えられた枠の中でのみ、幸せを探し感じなければいけません。
この『プール』という映画は、限られた時間(人生)の中でいかにそこに幸せを見出し、楽しみ、満足して生きていくか、を示しているのだと感じました。
自分と手をつなげる範囲の人は、地球規模で考えると本当にごくわずか。
制限のある時間と、限られた出会いのなかで、小さなことにもきちんと納得をして暮らしていこうと思いました。
『プール』のエンディングをみながら、私の頭のなかに浮かんだ言葉は「たおやか」
静かに終わりにむかうストーリーに、エンディング曲『タイヨウ』(ハンバートハンバート)のメロディが重なって、この物語の「日常の変わらないその後」を安心させられるように、淡々と映画がとじていきます。
あぁ、この人たちはずっとこのまま幸せなのだ・・・と。